長篠の戦いの嘘
「最新の日本史」では、従来、広く一般に信じられてきたことのほとんどが、実は史実とは言い難いことがわかってきている。
信長旧臣の太田牛一による「信長公記」
江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵による「信長記」
をもとに、
本当に織田信長は3000挺の鉄砲を使い『3段撃ちの新戦法』で、『戦国最強の武田騎馬隊』を打ち破ったのか。
「長篠の戦い」について
いまから歴史の再検証を始める。
これまで史実とされてきた「織田信長の3段撃ち戦法」や「武田騎馬隊」も含め、「実際の戦いの様相」はかなり異なるものだった可能性がある。
「長篠の戦い」とは1575年5月21日に三河国長篠(愛知県新城市)で行われた、「織田信長・徳川家康の連合軍」と「武田勝頼」による合戦である。
両軍の総数は、織田徳川軍3万、武田軍1万5000とされているが、諸説あり、実際の数ははっきりしていない。
戦場は、長篠城と設楽原地域の2カ所で、鉄砲のエピソードで有名なのは設楽原での戦い
戦いのきっかけは「徳川家康と武田勝頼の、北三河地域をめぐる攻防」である。
武田信玄の死後、徳川家康は「北三河地域を武田氏から取り戻そう」と、奥三河の要衝である長篠城を奪還。これに対し武田勝頼は、長篠城を三河侵攻の橋頭堡とすべく攻略へと駒を進める。
徳川家康は長篠城からの救援要請に応えて軍勢を派遣するとともに、同盟関係にあった信長にも出兵を依頼。「織田徳川連合軍」という形で武田軍に対峙することとなる。
これまでの認識では、織田徳川連合軍は、武田軍の得意とする騎馬隊による突撃を「馬防柵」で食い止め、横1列に1000挺ずつ3段に分けた鉄砲3000挺で一斉交代射撃を行って、武田軍を撃退したというストーリーが通説だが、
この話が疑わしい。
これは、江戸時代初期に書かれた小瀬甫庵による『信長記(しんちょうき)』に書かれているストーリーだが、
『信長記』は戦いから数十年を経たあとに書かれた小説で、当事者または同時代に残された記録ではないことから、「信憑性に問題がある」とされている。
新事実、其の壱
「1000挺一斉射撃」もデタラメだった。
「長篠の戦い」について、近年では『信長公記』や現地での発掘調査の結果なども基に検証が行われ、これまでとは「異なる解釈」が行われるようになっている。
そして鉄砲の数は「3000挺」ではなかったと疑問が持たれている。戦場となった設楽原の発掘調査では、なぜか鉄砲の弾がほとんど出土しておらず、本当に3000挺もの鉄砲が使われたのか。
そもそも3000という数は、小説である『信長記』に記されている話であり、『信長公記』には、信長は各部将から少しずつ銃兵を集めて1000人ほどの鉄砲隊を臨時に編成したと記されており、実際には「3000よりも少なかった」と思われる。
新事実其の弐
3段撃ちによる一斉交代射撃はあったかも疑わしい。
いわゆる「3段撃ち」のエピソードも、やはり小説である『信長記』に書かれた話。
突撃してくる武田軍に対し、信長が「敵が近づくまでは鉄砲を撃つな。約100mまで引き寄せたらまず1000挺が発砲し、1段ずつ交代に撃て」と命じる内容が基となって定着した。
ただ、信頼できる史料では「3段撃ち」については一言も触れられておらず、『信長公記』でも、鉄砲を
「さんざんに」
撃ちまくったとあるのみです。
新事実其の参
「武田騎馬隊」の活躍はなかった
この時代、戦国大名の家臣たちは、それぞれの知行に応じた数の騎馬や槍、弓などの兵を集め、戦場でもこれらの兵種が混在した形で集団行動をした。
これは武田氏でも同じ。つまり、「騎馬隊」と呼べるような兵団は存在しなかった。
さらに、当時の軍役から兵種を分類してみると、武田軍の騎兵の割合は全体の
1割程度だったこともわかっている。
ちなみに当時、日本にいた在来種の馬は、120cmほど。今でいう「ポニー」に近い体型であった。
新事実其の肆
「戦いの舞台」は、広大な平原ではなかった
「長篠の戦い」の主戦場となった設楽原は、「原」という地名からは開けた場所がイメージされるが、
戦場となった場所は、南北におよそ2km、東西に平均して200~300mほどの縦長な平地が広がり、その中央を河川が分断する、およそ馬が駆け巡る大平原とは程遠い戦場だった。
新事実其の伍
両軍は「平地」で戦っていなかった
決戦時、織田・徳川連合軍と武田軍は、上記の南北に続く平地に沿って背後に細長く連なる「舌状台地上に布陣」していた。
特に連合軍側は、武田軍本隊が長篠城から向かってくる数日前からこの台地を巧みに陣地化し、空堀や土塁、切岸を築くと、全体に柵をめぐらせ、高低差を利用して武田軍を迎えていた。
そのため、この戦いは武田軍からみれば「平原での野戦」というよりむしろ「城攻め」に近く、馬での戦闘には不向きだったのだ。
ところで、最初の目的だった長篠城はどうなったのか。
以前の投稿でも少し触れたが、信長が派遣した別働隊により、設楽原での決戦の日に救援された。
決戦の前日、信長はひそかに自らの親衛隊と家康軍の一部隊を合わせた4000の兵を迂回路から長篠城に送り、翌日の設楽原での開戦とほぼ同時に敵の包囲から長篠城を救っていた。
これで、織田・徳川連合軍の当初の目的だった「長篠城の救援」は達成されたうえに、設楽原でも「武田軍本隊に壊滅的な打撃を与える」という思わぬ追加ボーナスにより、勝利の印象がより鮮烈なものとなったのだ。
戦国時代後期には、鉄砲が戦場での主要兵器となり、「合戦の様相」はそれまでとは大きく変わっている。
信長はこの鉄砲にいち早く着目し、鉄砲の力で天下統一を目指したことは間違いない。ただし、彼の前に立ちはだかるライバルたちも、鉄砲を手にしていた。
なかでも大坂の石山本願寺は、鉄砲の製造と使用に秀でた雑賀衆とともに激しく抵抗を続け、信長はその攻略に11年もの歳月がかかったことで、道半ばで生涯を閉じる結果となった。
日本史では「新たな史料」の発見や研究の成果により、しばしば「史実」が置き換わっている。
教科書でそれまで「常識」とされていた内容でも、変更や削除、まったくの新事項の追加が行われ、特に「最近の記載の変化」は目まぐるしいものがある。
今回のように、「かつて学校で習った日本史」と「最新の日本史」では、実態が大きく異なるケースが多々ある。だから日本史は面白い。
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